スタジオ・ノーヴァ歴史の1ページ

スタジオ・ノーヴァ35周年と今後の展望

 制作会社としての確立と技術の進歩


 スタジオ・ノーヴァが出発して二年位たった頃、フジTV(JOCX)「ママとあそぼうピンポンパン」が始まった。「ママとあそぼうピンポンパン」は、それまで白黒で放送されていたが、この番組の「ダバダバダショー」からカラー放送になった。それまでの多くの番組はカラーではなく、カメラにズームレンズはついてなく、四本のターレットレンズで広角・標準・望遠と手で切り変えていた。テレビがカラーになって、映像技術が急激に進歩していった。NTV(日本テレビ)のRCAのカメラは、太い三本ものケーブルがあり、そのケーブルを捌くのに《ケーブルさん》と呼ばれるスタッフが必要だった。CXのフィリップスのカメラも二本のケーブルがあった。今のカラーのカメラは細い一本のケーブルしかない。そして《ケーブルさん》も、もういない。
 人形劇としては、プーク・ノーヴァは専門職であったが、映像に関しては必ずしもそうではなかった。CX「ママとあそぼうピンポンパン」の映像技術陣は飛びきり優秀だった。新しい技術がどんどん開発された。彼らはそれを使って何とか映像表現をしてみたかった。ノーヴアの人形と一緒に組んでやってみないかと相談があった。岡崎明俊氏の台本で「やまたのをろち」を制作した。完成した作品は新技術のオンパレードだった。カメラ・照明・VE・人形キャスト、スタッフ全員が何日か真夜中まで頑張った。その後、CXビデオ局制作の「カラオケシリーズ」とつながった。新しい技術が出来ると、すぐ、人形でテストしてみた。「カラオケシリーズ」は、私としては、人形劇映像の可能性を立体・平面・素材と、ある意味で人形劇映像のパンフレットみたいものだと思っている。これを見れば、人形の事は大抵わかるだろう。
 その頃、まだ誰も手掛けていなかったCG(コンピューターグラフィックス)も制作した。HD(ハードディスク)もない頃、データの打ち込みは穿孔テープという2cm幅程の紙のテープに読み取り用の穴を空ける方式だった。その穴の有無をコンピュータが読み込むのだ。打ち込みには一週間もかかった。そのテープが山のように溜まり、完成した映像は、とにかく人形のバックに簡単な動きのものしか出来なかったが、新しい事をやったという事だけで、大変嬉しかった。
 当時、「ママとあそぽうピンポンパン」はリハーサルー日、VTR収録二日、その他のコーナーの打ち合わせ等、一週間毎日局にいたような気がする。
 本番終了後は、制作・演出・技術・美術の全員が局前の居酒屋で次の番組の打ち合わせをし、そして家に帰るのは大抵朝の三時、四時。四時間位眠って、又局へ、という生活で、番組にどっぷりっかっていた。そうしているうちに番組づくりということが少しずつ理解出来たような気がする。
 その後、テレビ埼玉「お話かざぐるま」の制作が入った。アバコスタジオの現場に入って、ビックリした。VTRが3/4インチ。カメラは二台ある。しかし、色が一台ごとにまったく違う。その調整に一時間以上かかることもしばしば。照明も吊ってあるライトの数が少なく、足りない。ライトはセットの両脇にスタンドで立てた。そのためスタンバイに時間がかかるという、驚きの連続。今まで最新の技術とスタジオで番組を制作していた者にとってはショックだった。しかし、アバコクリェイティブスタジオのスタッフである林昌平氏、数原憲治氏たちの熱意はすごかった。機材の不備などものとせず、みんなを感動させる作品に仕上げた。作品は、設備・機材ではないという(ものづくり)の原点を教えてくれた。
 宗方・野田はまだ若かった。エネルギーが満ちあふれていた。アバコのスタッフや人形キャストといっしょに、「お話かざぐるま」年間四十本という作品を、勢いで仕上げていった。これがノーヴァの制作プロダクションとしての確立となった。
 それから何年か経ち、「ピンポンパン」のディレクターだった藤田洋一氏が「ひらけ!ポンキッキ」のプロデューサーとなっていた。その藤田氏から、人形劇をやらないかとのお話があった。ノーヴアだったら、(完パケ)でやってくれるだろうとの事。嬉しかった。キー局からノーヴァの力が認められたのだ。アバコの数原氏に、又、協力をお願いした。「ポンキッキ」の中で5~6分の連続人形劇「アップルポップ」は数多くの人達に助けられて六年も続いた。「ポンキッキ」はノーヴァに色々なチャンスを与えてくれた。
 筧達二郎氏は教育ビデオ「算数シリーズ」(二十分)を十本。このシリーズでは、園サトルによる、ノーヴァ初の立体アニメも制作した。「ポンキッキ」では、星野毅・佐藤東による人形ヴォードビルも(完パケ)で四構成、合計二十五作品を制作した。これらの仕事は、制作・構成・演出・美術・操演等すべてをおこなった。ノーヴァは、日本で唯一、企画・制作・演出・美術・操演が出来る集団となった。
 1991年には、花小金井のプークの稽古場に照明器具・調整装置を入れ、撮影スタジオとして使用出来るようにし、そこで数多くの作品を作った。以後の「お話かざぐるま」もここで撮影した。

お話かざぐるま撮影風景

お話かざぐるま撮影風景

「お話かざぐるま」も最初の頃は、カメラ二~三台でスイッチングをしながら撮影していたが、そのうち、番組制作経費削減の問題と共に、ある部分ではやむをえないと覚悟を決め、制作スタイルを変えてみた。その結果、一台のカメラで撮影しても画面的にもいいものが出来ることに気づいた。

 
※A例(前半)~カメラ3名・アシスタント1名・VE1名・VTRのスイッチヤ-1名・音声2名・照明3名・美術名・ 人形操作6名・スタジオマン1名・演出1名・制作2名……合計スタッフ26名
※B例(後半)~カメラ1名・VTR1名・音声1名・照明2名・美術4名・人形操作5名・スタジオマン1名・演出1名・ 制作2名……合計19名

 これは、テレビ埼玉「お話かざぐるま」のカメラ二台をスイッチングをする時と、一台のカメラを使って、ポスプロで編集する場合の、人数の差と機材の量の違いの一例です。
 このようなエ夫をしながらテレビ番組や、PRビデオ、教育ビデオ、CM等制作していった。
 人形制作プロダクションとしては、「アップルポップ」が終了して以来、帯番組(一週=五日~六日放送)の《完パケ》人形劇を制作していなかった。
 そこにNHK青少年の中村哲志氏より「天才てれびくんワイド」の中の1コーナーだが、将来の連続人形劇のためにやってみないかとのお話があった。中村氏とは、かねてからNHKの連続人形劇の復活を相談していた。スタジオ・ノーヴアの久々の制作プロとしての活動となる「ドラムカンナの冒険」

ドラムカンナの冒険

ドラムカンナの冒険

だった。新宿のエ房だけでは人形から小道具まで美術全部の製作が出来ないので、八王子に「ドラムカンナの冒険」用のエ房を借りた。又、NHK内部ではスタジオが確保できないため、外部スタジオで制作する事にした。
 演出・脚本・作曲・人形デザイン・CG等多数の人達と連日打ち合わせ、ノーヴァからもデザイン植松・菅澤等が参加した。事情により外部スタジオ撮影になったので、技術はNHKの人ではなく外部スタッフに、大道具も外部の佐々木氏(以前二時間人形ドラマの制作で出会ったセットデザイナー)になった。人形操作の人達も集めた。スケジュール調整が大変、制作デスクの酒井が大車輪で働いた。
 ようやく人形、大道具も間に合いそうだ。技術もテストを始めた。人形の声も入った。音楽も作った。演出の園田氏は台本直しとカット割りで大分バテ気味。ノーヴァ美術部員もだいぶバテ気味だ。
 とにかく皆疲れ果てたまま、撮影に入った。最初は三日撮りのつもりだった。やってみると、臨時のチームはなかなかうまく動かない。深夜、早朝まで撮影しても撮り切れない。撮り残し、後二日位かかりそう。ホテル代、ククシー代、弁当代、スタジオ代、技術費等々。大変だ!制作の私としては大あわて。ここはまず皆さんにお願いするしかない、等々……大騒ぎしつつの何カ月間か、スタジオに四日~五日続けて通った。皆んな大変だった。小さな子供のある人。次の日早朝から別の仕事のある人。皆さん本当にご苦労様でした。おかげでなんとか、全十二週二十六本の番組完成で全関係者に御礼。
 後は演出が編集と音付けをやれば、試写、納品というところで終了。その後は放送されて番組の評判の良し悪しで制作プロダクションとしての評価が出ます。

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スタジオ・ノーヴァのあゆみ 2

1984~1992

1984年(昭和59)、人形劇団プーク創立55周年の一月末、スタジオ・ノーヴア代表取締役の宗方真人が交通事故で急死した。前年暮れに南新宿のプークの側の記録映画社ビルに引っ越して来たばかりのわれわれは、暗い夜明けを思ったものだ。が、すぐに当時プーク人形劇場支配人の長谷川正明が社長として派遣され、その影響を最小限に食い止めた。この頃、CMなどで海外での撮影が続いた。スイスで明治製菓(チョコレート)、サイパンでTBS「ライオンスペシャル」の加山雄三の水上スキー、沖縄伊江島でカゴ「ケッコーなアサーッ」など。

ケッコーなアサーッ

ケッコーなアサーッ

 その年、文化庁から、独立間もないブルネイ王国・RTB(ラジオ・テレビ・ブルネイ)国立放送局の依頼で三ヵ月にわたるテレビの教育番組を製作する実践活動の一環として、人形劇番組の作り方を指導できる人を誰か寄越して欲しいと申し出があった。二ヵ月程度ならば一名位は可能だとの結論に達し、ブルネイ側に連絡を取り了解を得て、七~八月に派遣される事に決まった。人形劇の番組を二ヵ月でつくる方針をたて、現地の局員三十数名の前で英語でレクチャーして人形を造らせ、番組製作のノウハウを実践する。数年後プークの海外公演班がブルネイで上演した際、当時手助けしてくれたメンバー達が参加したそうだ。
 翌85年春に筑波万国博覧会が開催されて、プークはパビリオンでの「ジャンボット・星丸の冒険」を制作・上演した。このシャンボットは造語で大きなロボットの意味で、プークの得意なマンモス象や怪獣のタマゴ、星丸等が登場するのである。
 ノーヴァの美術製作のかたわら、劇団の舞台演出・美術もやっていた野田牧史は、児童演劇劇団協議会の合同公演「ヘルベの帽子」の演出の最中、脳内出血で倒れ入院。急きょ星野が演出代行となり、何とか無事ことなきをえた。
 ノーヴア美術部も、この頃ようやく成長した若手の力がいろいろな番組に現れ始めた。
 80年代後半になると、経済のバブル景気は冷え込み、各テレビ放送局の経営合理化で番組製作部門の分離が進む。その結果、市場は完全パッケージで納品出来るプロダクション、スタッフ集団を求めるようになった。スタジオ・ノーヴアはこれも早く、78年から始まったテレビ埼玉の「お話かざぐるま」で実証して(二十一年間制作継続)、88年からはフジテレビ「ひらけポンキッキ」人形劇コーナー「アップルポップ」シリーズを七年間にわたり、

のびのびノンちゃん

この期を境に、それまでプークでありノーヴァの仕事であった人形デザインが、イラストレーターのそれに取って代わられることになった。放送局側かデザイン面での新味を求めた結果であり、時代の流れに対応できなかった力の弱さを痛感する。
 70年、人形劇の映像化から出発したスタジオ・ノーヴァは、急速に変化するこの新しい人形の映像世界に対応した、技術集団のパイオニアとして歩んで来た。その果敢な「あゆみ」は失敗と成功、試行錯誤の積み重ねであった。
 1991年(平成3)夏。野田は二度目の脳内出血で倒れ大分で入院。1ヵ月後退院し、すぐに千田是也演出の『やっぱり奴隷だ』(PPT上演)に参加するが、翌年春再入院。これを機に劇団部に移籍。替わって星野がノーヴァに移る。

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スタジオ・ノーヴァのあゆみ 1

スタジオ・ノーヴァ第1期、テレビの活躍と不況の波   
 
 1969(昭和44)年、劇団創立40周年。十二月スタジオ・ ノーヴァ設立。それまで制作部内にあったテレビ部門を扱う第二制作部で活躍していた吉村ふく好・岡崎明俊を軸にして発展させ、美術の野田を加え、人形劇の映像を取り扱う部門を設立した。始めは隣接した記録映画社の裏の倉庫に事務所を置いてスタートし、緑色のカラー印刷の挨拶状を、長谷川正明、岡崎、星野毅の連名で全国に発送する。
 1970(昭和45)年。一月に法人化し、退団を希望していた梅原一男に一年間待って貰い、社長に就任させ、ノーヴァを設立・発足させるのである。委員会で決めた陣容は次の通り。梅原社長、野田、吉村、岡崎、佐藤東、清水優美、小島洋子、坂井みどりであった。劇団も田無に移転。ノーヴァも近くにあった農協ビルに移転し、制作部に後を譲り、初めての仕事は池袋西武百貨店地下ホールで、プークの黒の劇場の手法を売らんかなの企画を立て、ボードビル等小品を集めて上演を持った。そしてこの年は暮れる。
 1971 (昭和46)年。1月中にノーヴァは事務所を新大久保に移転する。始めの仕事はプークが進めてきたテレビ番組の継承であり事業の継続だ。四月からの新年度に向けて「スペイン語講座」をNHKから毎週OAすることになる。
 NTVのこども番組「おはようこどもショー」に人形劇コーナーが登場し、「五匹のニャイト」を放送し「花の好きな牛」等数本書いて、毎週よみうりランドのスタジオで撮影した。そして同時に、ニュース・コーナー「まんがジョッキー」に「ジョキ安」が登場する。NHKの高学年番組として「じんざえもんと5にんのともだち」の放送はじまる。秋の編成替えに「ママとあそぼうピンポンパン」の人形劇コーナー「ダバダバダ三兄弟」が加わる。

だばだばだ3兄弟

 NHKの1時間特別番組「ゆき」に野里元士さんと取り組む。この人形は全部木彫りで仕上げた。ノーヴァとプーク演技陣総出演で撮影した。
 秋には昨年から準備を始めていた、吉祥寺コスモビルPRのため「ポリタン・シヨー」を構成・演出した。酒井久美子に手伝って貰い、「X+Y」や「ポリタン」を演じてもらう。十一月末、プーク人形劇場が南新宿に落成する。
 冬休みにCMの打ち合わせを行った。それは、国鉄新幹線が大阪から岡山まで延長したので、それを、人形の新幹線が語る物だった。たしか東北新社だったと思う。
監督は前回と同じ市川崑だった。年が明けてアバコで撮影した。これはこの年のCM関係の賞を貰ったのだった。
 人事面ではいろいろな動きがあった。退団していた池内芳子をノーヴァの運営委員会に迎え入れ、事務局員に、劇団で吉村の助手をしていた長谷洋子を加え、充実を図る。小島洋子が出産の為休団する事で、ノーヴァの新人を71~74年にかけ募集する事になる。72年には岡野公夫、山本美穂子、戸嶋志津子、杉浦登を採用した。当時演技部で契約をしていたのは、劇団を都合で退団しフリーになっていた加藤玲子、前野博、古賀伸一、村松茂宏、山根宏章、磯辺美恵子や、潟見英明、飯室康一、清水正子、杉田智子と錚々たるメンバーだった。73年に矢羽夕起子・森山木の実。次に美術部員を募集した。72年、ガイ氏即興人形劇場に居た井上サチコ、梅本と、信子、人形劇団京芸にいたG子こと井上文子、田中正夫を採用した。念願だった酒井久美子を73年に美術部に復帰させて、第2次募集の74年に大森孝を加え、ノーヴアが映像の美術を全うする為に必要な戦力であった園サトルを、非常勤でなく契約で入社させ、第1次のノーヴア美術部の完成となる。
 1972(昭和47)年。NTV「おはようこどもショー」の人気被り物「ロバ君」(三木・市原製作)を「オットウ君」に取り替えた。製作はプークの中山だった。
  「青い馬」はノーヴァの舞台版として、別役実の書きおろし作品をNHKの渡邉治美の演出、星野美術で、池内、奥野らが俳優としにて舞台に立った。

青い馬

青い馬

 この頃、清水優美、PPT(プーク人形劇場)に移籍する。
 第11回ウニマ大会がシャルルビル・メジェール(フランス)で催された。日本ウニマ会長だった川尻は日本から四十名にも及ぶ参加者を募り、プークからも川尻、野田、他6名が参加する事になった。現地では、「日本の夕べ」で“人形日本風土記”のダイジェスト版を上演した。それから間もなく、プー吉班(小班)が「ひとまねアヒル」「小さなトムトム」で、日本に復帰したばかりの沖縄に巡演するのである。
 1973(昭和48)年。梅原が退社して岡崎が社長になる。ノーヴァは早野寿郎の提案で「別役シリーズ」を劇団俳小との合同公演をもち、『青い馬』再演と『海とうさぎ』を

海とうさぎ

海とうさぎ

、早野演出/野田美術でPPT上演する。
 プーク人形劇アカデミーが開校成って1期生が沢山入所した。
 待望の第一回アマチュアフェスティバルもPPTで開催される。
 さしもの好景気のノーヴァの活動も、石油危機の煽りを受けて、3年目に番組が減り始めた。子供のワイド番組が各局から消えたのもこの頃だった。五月の末ノーヴァは新大久保を引き払い、渋谷の並木橋の袂、鶯谷町へ移転した。
 待望だったTBSのレギュラー番組を、TBS映画社の映像で数本撮り、西友のファミリー・シアター「魔法使いの弟子」を仕込む。吉村企画で関谷幸雄演出/野田美術/横山道代とノーヴァ演技陣だった。引き続き吉村制作で福島カントリー・クラブのウィンドー飾りを一泊で出向く。野田美術/坂井みどりが参加する。
 大分のOBSから、年末家庭感謝祭に何か遣って欲しいと依頼があったので劇団に相談して、ノーヴァで『ひとまねアヒル』を仕込む事にした。これには村松のアコーディオンを中心に、劇団俳小の若手に参加させ、コンボを編成して生演奏を舞台に付けたのだった。引き続き「ピンポンパン」の人形劇コーナー「ダバダバダ三兄弟」を中心にしたコントで、ノーヴァ舞台班「ダバダバダ班」を結成し上演活動をする。翌年、京都の大丸からの依頼で急濾美術部に広田を加え、「ダバダバダ班」をもう一班仕込み上演。
 1975(昭和50)年。卯年なので兎のぴょん太を造りNHK教育テレビ「ぴょん太の安全教室」始まる。

ぴょん太の安全教室

六月二十六日中山杜卉子没。内山澄子、大石忠明、アカデミー一期生足立恵子、佐藤勝郎入社する。NTVの「ロンパー・ルーム」に出演が決まったのもこの頃だった。劇団「赤い鳥」の被り物ショー、「ふしぎの国のアリス」の美術製作を受け持つ。
 1976(昭和51)年辰年、星野、タスマニアに「とんまな天狗」指導に行く。アカデミー2期生酒井朝子、江原千代子入社する。岡崎、退社する。NHK総合テレビでみんなの歌「南の島のハメハメハ大王」野田/東/池内・村松・岡野他。宗方がノーヴァ社長に就任。岩波映画「コン太と森の仲問たち」撮影。NHK「きんの玉ぎんの玉」久し振りに木彫りで造る。日本教図でスライドを製作。フジポニーで「からオケ」を10数曲製作。CM、ライオン・スペシャル「加山雄三人形」をサイパンで撮影。野田、馬場。ノーヴアは鶯谷から代々木の記録映画社ビルに引っ越し。
 一時減少していたNHK教育の「幼児人形劇」「おとぎのへや」が、宗方・野田を中心としたスタッフの努力により、76年から84年にかけて、多くの作品を生みだした。
 また、79年四月より始まったテレビ埼玉の「お話かざぐるま」が、当初一年の予定が、その後二十年におよぶロングランを生む。いわゆる〈完パケ作品〉を作りうる会社スタジオ・ノーヴァの誕生である。
 この頃になって運営委員会の反省点は、世代交代の時期を逸した事だった。美術は製作に追われ殻に閉じ籠もりがちであった。もう相手側スタッフはそれが済み、若返っていたのである。話が噛み合わなくなっていたのであった。
 1984(昭和59)年。劇団創立55周年。一月末、宗方交通事故で死亡。

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スタジオ・ノーヴァの発足

 

1969~1983

スタジオ・ノーヴアの発足
 
 人形劇団プークは1971年人形劇専門劇場「プーク人形劇場」の完成を前にして、劇団と映像部と劇場の三つの部門の独立法人設立の方針を立て、1969年十二月、劇団の営業制作部門の中の映像部門を担当していた第二制作部と劇団の美術スタッフの一部を分割して、劇団とは経営上独立した事業体を設立すべく準備をすすめた。新発足する集団は、人形を中心とする映像の技術スタッフ集団としプーク創立者で劇団代表の故川尻泰司の発案で「新時代の技術集団」の意をこめ「スタジオ・ノーヴァ」と命名した。
 スタジオ・ノーヴァは翌年一月に法人化し有限会社スタジオ・ノーヴァ(代表取締役・梅原一男)として設立。事業目的はこれまでプークが行っていたテレビ番組やテレビCMはじめ映像関係の仕事すべてをひきつぐとともに、これまでプークが蓄積してきた映像活動と舞台活動の技術とプークが開発した人形劇のノウハウのすべてを利用し継承発展させることを社是とした。
 新発足したスタジオ・ノーヴァの仕事の手始めはこれまでプークが進めてきたテレビ番組の継承であり事業の継続であり、そしてそれはプークの演技アンサンブルが担っていたテレビ人形劇の出演者の確保だった。さいわい種々の事情でプークを退団した現役の俳優たちがこれをうめた。美術スクッフの中心には長年プークの美術部長をつとめた野田牧史が担当し、また実際の仕事はプークの美術部が応援した。7月には東宝芸術座公演「巨人の星」(長岡輝子演出)に人形製作と出演が決まり、続いて大阪万博に沸く大阪新歌舞伎座「サインはV」(松浦竹夫演出)出演も決まって滑り出しは好調に見えた。

石油ショックと経営危機
 
 ところが1973年秋第四次中東戦争がはじまり石油危機が世界中に広がった。石油に、電気をはじめエネルギーの殆どを依存し、また主なる日常生活用品が石油化学製品で占められている日本経済への打撃は大きく、電気の供給制限を求められた企業は操業を縮小し経済活動は急速に停滞した。また国民の日常生活にも直撃し、物価は高騰いっぺんにインフレと不況が押し寄せた。これは発足したばかりのスタジオ・ノーヴァにとって大きな打撃となった。ノーヴァの主要製品のほとんどが塩化ビニール、プラスティックなど石油化学製品だったから仕入れ材料は品不足で高騰し、しかもその値上がり分は不況で価格に上乗せできず据え置かれたままである。テレビ・コマーシャルの新規製作はストップしテレビ番組製作予算は縮小した。戦争は三ヶ月ほどで収束し石油危機は去ったがインフレの傷跡は残った。ノーヴァの経営状態は悪化しきびしい経済状況が1974、75年、76年と続いた。プークから、人と金の両面から応援を受けて経営立て直しを図ったが赤字態勢からなかなか脱しきれず、76年三月には新しく代表取締役にプーク人形劇場から宗方真人を迎えいれ経営陣の刷新を計った。

経営再建とテレビ埼玉放送「お話かざぐるま」
 
 77年春、スタジオ・ノーヴァに画期的な仕事が舞い込んだ。翌年四月に埼玉県のバックアップで新しく開局する予定の「テレビ埼玉」が県教育委員会から受注した小学校低学年向き教育番組「お話かざぐるま」の製作である。

お話しかざぐるま

お話かざぐるま

年間を通して午前中週一回放送される十五分の番組で三年間を1クールとする長寿番組である。スポンサーの埼玉県教育委員会が1959年NHK教育放送の発足から小学校低学年向道徳番組「大きくなる子」に注目し、この番組の美術と出演を発足から継続して担当してきたプークならびにスタジオ・ノーヴァの技術と実績を高く評価しての注文だった。ただこの仕事には埼玉テレビから特別の条件がついていた。それは完成品をビデオで納入すること、テレビ埼玉は放送とプロデュースの責任を負うが、作品の具体的な製作には一切関わらない。業界で言う「完全パッケージ」納入である。これまで単発で制作したことはあるが長期間にわたってこれはどの量を製作したことはなかった。しかも一本あたりの制作費予算は市場の半分以下の低廉な数字だ。ただ魅力は作品製作の一切を任せるという自由と長期間にわたる放送と多量の本数である。

トラちゃんの消防隊長

トラちゃんの消防隊長

テレビ人形劇の研究と技術開発の絶好の機会である。さいわい仕事の上で親しくしていたアバコ・スタジオが当時ビデオ製作に意欲を燃やしていて、この企画に全面的な協力を得ることが出来たこともこの仕事を可能にした。放送は78年四月に始まった。以来二十一年継続された。

 またこの時期に、記録映画社と組んで人形映画「トラちゃんの消防隊長」(86年教育映画最優秀賞受賞)の製作、十数本の企業の社内用ビデオ製作など同様の仕事が併行して入ってきた。こうしてこの期間に培われた研究と実験模索はスタジオ・ノーヴァのスタッフを技術的にも知識の上でも大きくし向上と自信を植付けた。

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人形劇団プークと映像活動

  1953~70  舞台活動と映像活動

 1953(昭和28)年。映像活動の華々しい一年だった。総天然色映画5巻「セロ弾きのゴーシュ」をクランクアップした。花王石鹸の人形映画「月の物語」、影絵映画「アラジンの不思議なランプ」も撮影した。
 この年顕著は、日本でテレビ放送が始まった年である。国営のNHKから民放NTV、TBSと開局して、早くもプークはNTVで九月から、「アラビアン・ナイト」を13週続けて影絵で放送し始めたのである。

アラビアンナイト

アラビアンナイト


 1954(昭和29)年。劇団創立25周年。新星映画「太陽のない街」に『大鉈騒動』で出演し、CMで日本ビールの「ビールの王様」をプークのアトリエで撮影する。新しく映画テレビ部のパンフレットを黄色い表紙で写真を一杯使用して造った。
 7月影絵映画「イワンの馬鹿」の製作に入った。

イワンの馬鹿

イワンの馬鹿

原田和枝、長谷川敏子、亀田鉄子、野田牧史が準劇団員山田三郎のデザインを待っての製作だった。劇団の大半は『バヤヤ王子』の巡業で留守だった。撮影は九月の末、江古田の日大映画科のスタジオで行われた。クランク・アップしたこの映画は25周年の掉尾を飾って八重洲口の国鉄ホールでの公演のプログラムの一つとして、上映された。どうしてこの頃、プークの映像で影絵が主流であったかと云うと、川尻さんは毎回の公演で作・演出で目一杯の状態で、他の美術部員は退団していたからだった。影絵はデザインが出来れば後は工作員が多勢居れば出来なく無いのであって、丁度この時期のプークの美術部向きの仕事であったのだ。
 1956(昭和31)年。NHK総合テレビ「チロリン村とクルミの木」放映はじまる。
 ☆第22回俳優座劇場『金の鍵』で、初めて人形を彫る。小林博さん嘱託で美術部に入る。新宿商店街の催しで被り物を7体造る。この被り物は全部張り子で造った。
 養成所7期卒業。三木三郎美術部へ入部。
 ☆第23回公演『イソバと海賊』北海道夕張初日で幕開け。美術部がごっそり青函連絡船に乗り込む。この舞台は川尻さんの舞台装置の助手を大田サトルが務めたのだった。大阪のOTV開局記念で「カニの床屋」と「小さいお城」を撮影、放映。クラルテの稽古場を借りて「お城」のセットを造る。
 1957年毎月一回、一年間「一体さん」をNHKで放映し、いよいよテレビ時代に突入した。台本は全部中江隆介であった。この時の録音は内幸町のスタジオで、プークの私達と「ヤン坊ニン坊トン坊」の黒柳徹子、里見京子、横山道代の3人娘や七尾令子さん達と一緒だった。まだ「声優」と云う職業が確立していなかった時代だった。
 第25回公演『青い鳥』初演の後、モスクワ平和友好祭に川尻泰司、木村陽子、古賀伸一が初めて海を渡りフェスティバル運動に参加する。
 1958(昭和33)年。二月「一休さんのたいこ」「一休さんのいじめっこ」の二本の人形映画を高円寺のスタジオで撮影する。

一休さんのたいこ

一休さんのたいこ


 4月から放映が始まるNHKの「びっくりくん」の準備に入る。入学した1年生のびっくりくんが、新しい学用品や日常の持ち物を巡って学校や家庭で巻き起こすドラマで、その持ち物がアニメーションで動くのである。そのアニメーターが大田サトルだった。サトルは女子美出の7期生で、アニメーターの修業をした日本で初めての女性アニメーターと云っても良い人物だった。内幸町のNHKの裏から東京新聞に隣接した別棟の特別スタジオで、三月の始めから四月一杯まで徹夜状態で撮影されたのだった。徹夜明けで車で帰る途中、神宮の森の木々が日ごとに緑に色づくのを感慨深く見ていた。本編の撮影は第1スタジオで、すぐ前の大きな第3スタジオは「事件記者」が撮影されていた。プークのアトリエで、森永乳業のCM「ホモちゃんの天気予報」を撮影する。人形ホモちゃんの声を久里千春が遣っていた。
 1958年NET、フジTV開局。NETの「理科教室」に吉村福子と納谷吾郎が毎週出演。
 映像と云う言葉は以前からあったが、使われ出したのはテレビが放映されて暫くしてからだろう。スクリーンに映る映画と、ブラウン管に映るテレビの画面と両方共に、カメラを通した画像を映像と云ったのである。プークは早くから映画に取り組んだ。それは、川尻さんと中江さんの二人がそれを押し進めたからだが、然し舞台を中心に活動していたプークは、映像の仕事がどうも軽く思われた。いや蔑視していたと云っても良かっただろう。「テレビに逃げる」などと云っていたのである。だから劇団員で、出産を経験し、在京で休団中の者からテレビ放送に関与していたと云う状態だったのである。
 NHK教育テレビ「ころすけくん」盛善吉作にユニット出演始まる。

ころすけくん撮影風景

ころすけくん撮影風景

「大きくなる子」第1回と呼ぶ。テレビ人形劇で棒遣い人形の初めてである。撮影の日は毎朝早く2tトラックで築地スタジオに人形、セットを持ち込み建て込んだものだ。
 ☆第28回公演『ファウスト博士』再々演で宇都宮、大阪公演。この時期プークは土地問題で揉めていて、肩流れの事務所側を総2階に建て替える事になった。大阪から帰った時に、出来上がった建物にそれぞれ配置されたのだった。美術部は1階の奥の階段の下(昔の倉庫と井戸のあった台所)の位置にアトリエを構えた。
 八月第1回北海道人形劇フェスティバル開催。アトリエに『ファウスト博士』公演で俳優座製作場から戻って来た高橋春光さんがドリル一丁を持ち帰り、轆轤可能な電動木工の丸鋸を組み立てた。まだその頃は、毎日、七輪に炭入で練炭を熾し暖房と、焼き鏝と焼き火箸を突っ込みヤカンでお湯を沸かしていたのである。お湯は、湯煎した膠を接着剤や顔料の解き材にしていたから必需品だったのだ。穴を開けるのも錐や焼き火箸を使っていた。そんな風だったから、徹夜の仕事も多かったのは止むを得ない。然しこの轆轤機は「ころすけ」の製作に、大いに役立ったのである。不二家のペコちゃんが表紙になる月刊雑誌が発売される事になり、その表紙を毎号人形のペコ、ポコちゃんの衣装を変えて撮影した。それが店頭に立っているペコちゃんの変装に繋がるのである。CXの「マリン・コング」(ゴジラに引き続く海の怪獣物)を造ったのもこの頃だ。ラテックスの匂いがアトリエに籠もって臭かった。正式に、常時の部組織に美術部を再編したのもこの時だ。野田部長、高橋春光、小林博、大塚ふくよ、鈴木英子だった。この後入って来たのが星野毅だ。その後中国帰りの中出社卉子が入部する。
 翌年春、新入募集でエスペランチスト伊東三郎さんの娘、宮崎路辺と明星学園の同窓生、小田部協子、佐々木苑子とが入部する。
 秋にNHK・TVがカラー放映を始める。プークもその前に、千歳船橋のNHK技術センターで何度もテストに協力をした。
 ☆第30回公演『逃げ出したジュピター』お茶の水日仏会館。登場入物の人形を全部棒使いで造る。手足の関節の工夫、接着剤のカネスチックや塗料を顔料から油絵の具やネオ・カラーにしたのもこの時である。
 第32回『石の花』公演の後、美術部のアトリエを奥の場所から前の玄関口の直ぐ横に移した。フィリップ・ジャンティが来て一緒に第3回北海道フェスに参加する。
 表玄関を上がって、二階の経営制作部と宿直室のある部屋の、向かい側の部屋を映画部が陣取ったのもこの頃だ。テレビと映画を分けたのである。テレビは第二制作とし、野手、岡崎が担当して、映画部は梅原、高橋、宗方、久保田、竹内、吉村だった。第33回『勇敢なる兵卒シュベイク』で主入公シュベイクやバローンが数体ずつ必要なので思い切って、モデリングを石膏で雌型を取り、プラスチック樹脂を流して造る方法を取った。人形はモデリング通りの筈なのに、微妙な歪みが生じるのか、気に入らなかった事を思い出す。プラスチック樹脂加工の方法は悪くないのだが、仕事が仕事だけに、手元の周りで扱う道具や工具がからっと変わるのである。型を合わせる時の接着もからくりの固定も、樹脂の触媒を常時2液用意して置くことが能率を上げるコッである。だから、この公演以来暫く、テレビの人形もプラスチック成形で造ったりした。NHKの真理よし子と共演のダックスフント犬や、ボードビル作品の「しょじよ寺の狸囃子」の子狸達が現在残っているものだ。
 1962年田井洋子台本で「ワンワンちゃん物語」を「コロン形式」と名付けた四つ足の犬の人形で放映。中江隆介没。15期生が卒業して昨年入所時から居た酒井久美子、加藤文子、真島美恵子、小俣毅彦、佐野直栄がそのまま美術部に入った。
 1969年スタジオ・ノーヴア設立を発表する。70年東宝舞台「巨入の星」上演。翌年の大阪新歌舞伎座「サインはV」につながる。

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現代人形劇と映像


人形のテクニカルスタッフ スタジオ・ノーヴアのあゆみ
                  
1953~1968

日本の現代人形劇のはじまり
 
  日本における現代人形劇の歴史は八十年ほどである。1918年第一次世界大戦終結後、旧体制が瓦解したあとの欧州各国で、自由で斬新な表現を求める芸術近代化の運動が、若い芸術家たちを中心に興りやがて運動はヨーロッパ全土に広がっていった。人形劇の分野でも古い伝統人形劇にかわる自由な新しい表現を志向する現代人形劇の創造が多くの青年美術家や演劇人によって試みられ人形劇芸術の可能性を探求する芸術運動となって、チェコ、フランス、イギリス、ロシア、イタリアなどヨーロッパ各地に定着し、1929年には各国の人形劇人がプラハに集い国際人形劇連盟を設立する。
 日本でこの運動にいちはやく注目したのが築地小劇場で新しい演劇の創造をめざしていた舞台装置家の伊藤熹朔や千田是也たち二十歳代の演劇青年たちだった。彼らは1923年秋「お人形座」の名で糸操り人形による人形劇試演会を開催した。これが日本の現代人形劇の歴史のはじめと言われている。その翌年には版画家の永瀬義郎や恩地孝四郎らのテアトル・マリオネット、松竹大船の映画美術監督の浜田辰夫、土方定一らのテアトル・ククラ、川尻東次、潮田税らの人形クラブなどがあいついで創立される。しかしこれらのグループの活動は、青年時代の趣味、研究などサロン的活動の域を出ないものであったから、やがて彼らの本来の仕事が本格化するにつれ、自然と人形劇の活動から離れグループは解消していった。ただ教育者を中心とする人形劇は、視聴覚教育という新しい幼児教育方針のなかでその役割が注目され活動は活発化していった。
 伝統人形劇をのぞく職業的専門人形劇の本格的な活動は、戦後の1945年八月以降である。戦争で活動を休止していた人形劇団、グループと新興のグループが相次いで公演活動をはじめた。1946年十二月には三十の劇団、研究グループによって日本人形劇協議会が設立される。人形劇は一時百花繚乱のていであったが、しかしその多くが技術的に未熟で職業化は難しく、多くの劇団やクループは50年までに経営的理由で休業または解散に追い込まれていった。しかしこの困難な時代にあって人形劇の職業化、専門化をめざす少数の劇団によって人形劇俳優、美術家の養成の努力は続けられ、その成果は1960年代のテレビ時代に開花していく。     ’`
               
現代人形劇と映像
 
  日本における人形劇の映像化の試みの初めはいつであるかは判然としない。戦中の1942年(昭和十七)、満映作品・結城人形座出演「夜明珠伝」(製作/岩崎昶、監督/八田元夫、美術監督/山崎醇之輔)が作られている。1944年には川尻泰司が日本映画社練馬製作所で「南の国の影法師」の一部を試作している。

南の国の影法師

また終戦の年の1945年十二月に市川崑監督が東宝映画「踊る人形」(出演/川崎プッペ)を撮っている。しかしいずれも残念ながら一般の目にふれることなく記録として伝えられているのみである。


 戦後占領下の日本は物資不足と生産体制は整わず映画製作もまた制限されていたが、50年代に入るとようやくフイルムや機材の生産が軌道にのり、またテレビ放送の実験も始まり人形映画製作の企画が出始める。1953年には人形劇映画のエポックを画した初の国産コニカラー映画三井芸術プロ作品「セロ弾きのゴーシュ」五巻(原作/宮沢賢治、製作/厚木たか、脚色/田中澄江、監督/森永健次郎、美術/川尻泰司、出演/プーク)が製作され洋画系の映画館で封切られた。

セロ引きのゴーシュ

セロ弾きのゴーシュ


 1953年にはNHKと日本テレビがテレビ放送を開始し、50年代後半には関西、東海、九州など地方民放各社の放送もはじまった。テレビ時代の幕開けだ。結城人形座、竹田人形座、人形劇団プークなどの既存の人形劇団のテレビ出演につづいて人形劇俳優個人の出演の機会がひろがる新時代を迎えた。また視聴覚時代を先取りしようと十六ミリ映画の製作も盛んとなった。1956年には東映教育映両部で山根能文/製作・人形映画「若返りの泉」が製作され、教育映画の配給を専門とする企業も製作にかかわり、人形劇映画は一時隆盛を極めた。60年代に入るとTBSテレビ、日本教育テレビ、フジテレビ、NHK教育テレビと全国ネットをもつキー局があいついで発足し、子ども番組やCMなどで人形出演の需要は急速に伸び、人形劇団の数も増え、また人形劇のタレントをめざす若い人たちの参入も盛んとなり、人形劇の職業化がいっきに実現した。

人形劇団プークの映像活動
 
 1969年十二月、スタジオ・ノーヴァは、人形劇団プークの映像部門を母胎に独立、人形を中心とした映像専門の技術スタッフ集団として発足した。
 人形劇団プークは1929年創立の現代人形劇の創造集団である。プークは、創立の当初より人形劇の映像化に深い関心をもち、1933年十月の第四回公演「勇敢なる兵卒シュベイク」の演出補導に松竹大船撮影所で小津安二郎監督「東京の女」をはじめ吉村公三郎監督「暖流」などの映画美術監督をつとめた金須孝氏を招いて舞台の中での映像について指導を受け、40年にはグループ内に「人形映画製作研究会」を設け映画理論の勉強を始めている。戦時中には、前述のニュース映画制作会社の日本映画社練馬製作所で人形映画「南の国の影法師」を試作する経験をしている。戦後、1951年から新世界映画社や理研映画のニュースフィルムなどに出演し、1953年には三井芸術プロ作品「セロ弾きのゴーシュ」製作に劇団あげて取り組んだ。この経験はこの後に作られる十六ミリ映画「ピョントコうさぎ物語」、「一休さんシリーズ」、テレビ人形映画「月の物語」、「ホモちゃんの天気予報」四十本など数多くの人形映画の製作に活かされた。

月の物語

月の物語

ホモちゃんの天気予報

ホモちゃんの天気予報


 1953年、日本テレビ開局では三ヶ月にわたり影絵「アラビアンナイト」13回をプークユニットで生放送する。1950年末から60年代はじめにかけ、子ども向き番組、CMなどに人形劇出演の需要が急速に増え、60年代半ばにはプークの活動の80%がテレビ部門でしめられるほどになる。こうした活発な映像活動に対応してプークは、舞台と映像での二つを事業の柱とする活動方針をとる。この時代、プークはテレビ番組の中で棒使い人形、黒の劇場形式の導入、操りとコマ撮りの合成など意欲的な実験を試みている。

 58年四月からNHK教育番組で週一回放送した「びっくりくん」は、日本で最初の操りとアニメーション合成のテレビ映画である。

びっくりくん

びっくりくん

主人公の小学一年生の「びっくりくん」は手使いの人形で、「びっくりくん」をとりまくランドセルや鉛筆、消しゴム、ノートなどの物はアニメーションで動くというNHKテレビディレクター伊達兼三郎とプークの川尻泰司が企画し作家の筒井敬介と組んで実験的に取り組んだ異色作だった。

新幹線CM

新幹線CM

また59年NHK教育テレビ開局のテレビ人形劇「第一回大きくなる子―ころすけくん」では人形形式を棒使い人形にしてこれまでカメラワークが正面のみであったものを部分的にも俯瞰撮影を交える画面作りをとりいれる。さらにはプークが舞台で実験的な試みをしていた「黒の劇場」形式のテレビヘの導入は注目を浴びた。64年東京オリンピック開催にあわせて東海道新幹線が開通、映画監督市川崑演出、プーク製作の人形による「新幹線CM」は評判を呼んだ。テレビでの人形劇の活躍は人形劇の舞台公演活動へと波及し、60年代半ばには「子どもの情操教育に優れた文化財を与えよう」という日本各地の地域の母親と青年たちでつくる子どものための舞台鑑賞組織「子ども劇場」や映画鑑賞組織「親子劇場」が発足し、プークの公演活動に対する期待と要望が高まった。劇団の経営は安定したが団員たちの活動は舞台と映像の両方をかけもち多忙を極めた。その結果、稽古時間の減少や準備不足など舞台、映像部門いずれの創造的活動に支障をもたらしはじめた。もはや映像部門の活動は劇団の一部門の事業としてすすめる段階を超えた。活動をいっそう活発化するには映像部門を劇団と切り離し独立させ専門化することが必然的な流れとなった。

 

 

 

 

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