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スタジオ・ノーヴァのあゆみ 2

1984~1992

1984年(昭和59)、人形劇団プーク創立55周年の一月末、スタジオ・ノーヴア代表取締役の宗方真人が交通事故で急死した。前年暮れに南新宿のプークの側の記録映画社ビルに引っ越して来たばかりのわれわれは、暗い夜明けを思ったものだ。が、すぐに当時プーク人形劇場支配人の長谷川正明が社長として派遣され、その影響を最小限に食い止めた。この頃、CMなどで海外での撮影が続いた。スイスで明治製菓(チョコレート)、サイパンでTBS「ライオンスペシャル」の加山雄三の水上スキー、沖縄伊江島でカゴ「ケッコーなアサーッ」など。

ケッコーなアサーッ

ケッコーなアサーッ

 その年、文化庁から、独立間もないブルネイ王国・RTB(ラジオ・テレビ・ブルネイ)国立放送局の依頼で三ヵ月にわたるテレビの教育番組を製作する実践活動の一環として、人形劇番組の作り方を指導できる人を誰か寄越して欲しいと申し出があった。二ヵ月程度ならば一名位は可能だとの結論に達し、ブルネイ側に連絡を取り了解を得て、七~八月に派遣される事に決まった。人形劇の番組を二ヵ月でつくる方針をたて、現地の局員三十数名の前で英語でレクチャーして人形を造らせ、番組製作のノウハウを実践する。数年後プークの海外公演班がブルネイで上演した際、当時手助けしてくれたメンバー達が参加したそうだ。
 翌85年春に筑波万国博覧会が開催されて、プークはパビリオンでの「ジャンボット・星丸の冒険」を制作・上演した。このシャンボットは造語で大きなロボットの意味で、プークの得意なマンモス象や怪獣のタマゴ、星丸等が登場するのである。
 ノーヴァの美術製作のかたわら、劇団の舞台演出・美術もやっていた野田牧史は、児童演劇劇団協議会の合同公演「ヘルベの帽子」の演出の最中、脳内出血で倒れ入院。急きょ星野が演出代行となり、何とか無事ことなきをえた。
 ノーヴア美術部も、この頃ようやく成長した若手の力がいろいろな番組に現れ始めた。
 80年代後半になると、経済のバブル景気は冷え込み、各テレビ放送局の経営合理化で番組製作部門の分離が進む。その結果、市場は完全パッケージで納品出来るプロダクション、スタッフ集団を求めるようになった。スタジオ・ノーヴアはこれも早く、78年から始まったテレビ埼玉の「お話かざぐるま」で実証して(二十一年間制作継続)、88年からはフジテレビ「ひらけポンキッキ」人形劇コーナー「アップルポップ」シリーズを七年間にわたり、

のびのびノンちゃん

この期を境に、それまでプークでありノーヴァの仕事であった人形デザインが、イラストレーターのそれに取って代わられることになった。放送局側かデザイン面での新味を求めた結果であり、時代の流れに対応できなかった力の弱さを痛感する。
 70年、人形劇の映像化から出発したスタジオ・ノーヴァは、急速に変化するこの新しい人形の映像世界に対応した、技術集団のパイオニアとして歩んで来た。その果敢な「あゆみ」は失敗と成功、試行錯誤の積み重ねであった。
 1991年(平成3)夏。野田は二度目の脳内出血で倒れ大分で入院。1ヵ月後退院し、すぐに千田是也演出の『やっぱり奴隷だ』(PPT上演)に参加するが、翌年春再入院。これを機に劇団部に移籍。替わって星野がノーヴァに移る。

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